【映画レビュー】『アデル、ブルーは熱い色』(2013)異例の賞受賞を果たした衝撃の演技!なのにおすすめしてはいけない作品…?※ネタバレあり
監督はとにかくこの作品で世に衝撃を与えたかったのだろう…
こんな作品があったなんて…
見事に衝撃を受けました。
カンヌ国際映画祭で一躍話題になったこの作品。
おそばせながら鑑賞いたしました。
なんとも心を鷲掴みにされたような感覚がありこの映画について少し調べてみましたら、次々出てくる衝撃の事実…
おすすめしてはいけない、けれども見らずにはいられない。
そんな率直ながら複雑な心境を言葉にしてみます。
先にお伝えしますが、まだ見たことがない人は先に作品を見たほうが良いです。
何も知らないまっさらな状態で見たほうが、この作品はより深く楽しめると思います。
とにかく凄い主演女優の演技!
この作品では撮り方が独特で、固定カメラではなく画面は常に揺れ動いています。
そしてそのほとんどが主演女優のドアップです。
引きで撮られているシーンはところどころに少しだけ。
そんな取り方でおよそ3時間もの間、主演女優アデル(アデル・エグザルコプロス)が演じるアデルの日常が、これまでかつてないほどのリアリティで描かれています。
ご飯食べているところ、働いているところ、寝ているところ、セックスしているところ…
演技で一番難しいのは自然にみせることだと聞いたことがあります。
じゃあ、このアデルの演技はいったい何なの?
ていうかこれ演技なの?
とでもいいたくなるほど、気づけばアデルの心情に入り込んでいたかのような…そんな錯覚さえ感じられ…
それもそのはず、演技中ではない女優アデルの素の様子を撮影した映像も本作に使われたとか。
アデルの飾らない表情と、わざとらしくないリアクション。
言葉にすればらしく聞こえますが、見た人にはわかるそのすごさ。
なんでもヘアーメイクさんなし、会話の多くがアドリブで構成されているそうです。
そしてこの映画では、セックスシーンが鮮明かつ大胆にこれでもかというほど描かれています。
フランス映画ではセミヌードに対してすでに抵抗がなくなってきましたが、それでもこの作品ではセクシュアルな描き方が度を超えている…
本番さながらのセックスが何度も登場します。
それでもポルノのような激しいいやらしさはさほど感じず(フランスのポルノも何度か拝見したことがありますが…)
アデルの心情のほうに観客の視点は持っていかれているような感じなのです。
そしてエマ(レア・セドゥ)の独特な雰囲気を放つ魅力からも目が離せません。
その透明感に満ちた顔立ちで、クールに知的な立ち振る舞い、そしてその素直な生き様。
その圧倒的な存在感。
アデルをリードしているように見えて、いたるところにアデルへの優しさが溢れています。
印象深いシーン
両親への紹介
アデルは自分の性と周囲の人たちからの視線に悩みます。
その葛藤が最初から最後まで描かれるわけですが、お互いの両親に紹介するシーンでエマとアデルの内面的な葛藤が表面化します。
エマはアデルを恋人として自分の両親に紹介するわけですが、レズビアンを公表しており、また両親の理解もあります。
両親はアデルを歓迎し、アデルは戸惑いながらも居心地の良さを感じるような温かい雰囲気で描かれています。
一方でアデルは両親にエマを友人として紹介します。同じ食事の団らん風景でも幾分冷たさを感じるのは私だけではないでしょう。
エマは両親からの質問に対し、アデルを立てる形でおだやかに友人として会話を勧めます。
それもなんだか悲しいのです。
エマの誕生日パーティ
そして意図的に2人の気持ちのすれ違いの始まりを描いたシーンがエマの誕生日のパーティ。
アデルはいわゆる気が利く良い女の子。
食事の準備から配膳に動き回ります。他の男性の目にとまるくらいに、その尽くす様は愛らしい。
しかし芸術家たちが集うパーティでは話題に入ることができません。
そしてエマは何やら一人の女性と親密な様子。
他のシーンとは違い、明らかに観客に訴えてくるこのアデルとエマの亀裂の瞬間。
誰もがここがきっかけだとわかる流れになっています。
同時にアデルへの感情移入が加速するシーンでもあります。
結局アデルはその女性との関係を気にしながらもエマを問い詰めることもできず、2人の関係には溝ができていきます。
別れのケンカ
エマは遅くまで帰らない日が増え、セックスにも後ろ向きになっていきます。
アデルはエマに詰め寄れない繊細さながら、寂しさに耐えられなくなり男性の同僚と浮気。
それをきっかけにエマから同居していた家を追い出されます。
このときのアデルの演技がすさまじく観客の心を激しく揺さぶります。
後に本人がこのシーンの撮影が一番辛かったと語っていますが、それも納得の激しさ。
このときにはすでに、エマの許しを請う自分がいました。
こんなにもエマを愛しているのに伝わらない、伝えきれないアデルの不器用さ…
悲しく、切なく、愛おしい…
なんとも言えない感情を抱かされました。
再会
数年後、アデルはエマを呼び出し再会します。
エマの変わらない堂々とした振る舞いと、背伸びした大人っぽさを演じながらもたどたどしいアデル。
すでにパーティで親しげだった女性と一緒になっているエマですが、アデルは最後までエマを責めることはありません。
苦しいほどにエマを愛しすぎて、惨めさをさらけ出しエマを欲しながらも最後までエマを気遣うアデル。
わかっていながらも、アデルを応援せずにはいられないこの切なさよ…
その後エマから自身の展覧会に招待されます。
夢だった展覧会の開催を新しいパートナーと果たしたエマ。
象徴的なブルーのワンピースに淡い気持ちを重ねて展覧会を訪れたアデル。
その展覧会にはアデルの絵もありますが、一面が新しいパートナーと思われる絵で満たされています。
そして足早に展覧会を後にするアデルの後ろ姿で映画の幕を閉じるのです。
なんともおしゃれな終わりで、これまでの複雑な感情のもつれあいを描いてきた映画としては以外にも爽やかな印象を与えます。
そして観客はアデルの幸せを願わずはいられないでしょう。
そんな余韻を残してくれる終幕でこちらが救われました。
LGBTとしての視点
この作品では性に対する葛藤を描いており、アデルとエマを対峙させる形で内面的な葛藤と社会的な受容環境の差異の両面から考えることができます。
しかしいろんな方のコメントをみているとエマはレズビアンとしての生き様だと誰も疑わないのに対し、アデルはそのあたりが曖昧です。
アデルが大学生の頃に感じた違和感は、レズビアンとしてなのか、はたまた単に相手への感情に乏しかったからなのか…
2人が別れる原因になったアデルの浮気も男性でした。
しかしこの描き方が私個人にとってはとても重要で、
つまりは性の対象によって安易にレズビアンやゲイ、バイセクシャル、パンセクシャルとカテゴライズすること自体は便利であってもここではそれは無意味で、
むしろ誰かを本気で愛することにそんな垣根を設けた考え方はナンセンスだと言われているような気がしました。
そういった意味ではLGBTどうのということではなく、アデルという女の子が不器用ながらに一人の人を愛し、
不器用ながらに成長していくストーリーという側面により注力されていると言っていいかもしれません。
おすすめしてはいけない理由
この作品はカンヌ国際映画祭で、通常は監督に贈られる賞を主演女優2人にも贈られたことで異例の話題作となり、
それまで無名の女優だったアデルは一躍有名になりました。
すでに活躍していたレア・セドゥとともに栄光を手にし、華々しく話題をかっさらったわけですが、
実は2人の意向に沿わない撮影現場があったようで、レア・セドゥは裁判に持ち込むとも報じられたとのこと。
それもそのはず、衝撃のセックスシーンは10日間もかけて撮影されたようです。
ポルノでもそんな撮影に耐える女優はそうはいないでしょうに…
2人の意に沿わない形で、身も心もボロボロになるまで全てを捧げた作品なのです。
そうまでしてできた作品なだけに、手放しでシェアできないのが正直なところ…
最後に
万人受けする映画ではなく、特に日本人受けはさほど良くないでしょうが、誰もが2人の女優の演技から衝撃を受けることは間違いないでしょう。
私の中では間違いなく”心を揺さぶる映画”のひとつになりました。
ただし、この映画を見る際は労働者の権利、女性の権利といった女優の名誉に係る部分を軽視してはいけません。
もちろんですが、映画のシーンをおもしろおかしくネタにしたり、パロディ化することは避けるべきで、
彼女たちの偉業に敬意を示し、また彼女たちにとって負の歴史となってしまわないような配慮が必要です。
日本でも俳優業において、俳優の望まない形での演技が強要された事案は少なからずあります。
そういった大衆のための犠牲を生まないように私たちも日頃から意識しなければいけないと感じたところです。